2026年5月10日、徳永英明さんのコンサートに行ってきた。
会場は清水マリナートだった。
僕にとって、徳永英明さんのコンサートは初めてである。
過去のステージと比べることはできない。
それでも、終演後に残った感覚ははっきりしていた。
僕は、徳永英明のベストステージを見た。
声がよかった。
歌がうまかった。
それはもちろんある。
ただ、僕が見ていたのは、歌そのものだけではなかった。
歌に入る前後の身体の置き方である。
徳永英明さんは、歌以外の言葉が多くない。
一曲が終わる。
数秒の間がある。
そして、次の曲に入る。
その間が短かった。
急いでいるわけではない。
休んでいないわけでもない。
歌い終えた身体のまま、次の曲の入口にもう立っている。
そんな感じだった。
高音に入るときの右足も、印象に残った。
徳永英明さんは、高い音を出す場面で右足を前に出す。
半歩、前方に足場を作るような姿勢である。
途中から、僕はその右足を見るようになっていた。
右足が出る。
そのあとに、声が出る。
何度か見ているうちに、こちらの中に小さな安心が生まれた。
ああ、大丈夫だ。
声が出る前に、身体がもうその場所に入っている。
足が出て、軸が決まり、声が出る。
派手な身振りではない。
見せるためのポーズでもない。
結果が出る前に、結果が出る身体になっている。
そういう所作だった。
装いにも、同じものを感じた。
徳永英明さんは、スーツ姿でステージに立っていた。
胸元には赤いチーフが見えた。
僕は2階席から見ていたので、靴の細部までは分からない。
本当に革靴だったのか。
本当にピカピカだったのか。
そこまでは見えていない。
それでも僕は、あの靴はきっとピカピカの革靴に違いないと思った。
スーツの輪郭。
舞台上での立ち方。
歌に入る前の静止。
曲が終わったあとの身の引き方。
それらを見ていると、見えない足元だけが雑であるとは思えなかった。
ここに、場への礼儀を感じた。
清水マリナートは、地方の一つの会場である。
けれど、徳永英明さんの姿に、地方公演だから少し力を抜くという気配はなかった。
大都市だから丁寧に立つ。
小さな会場だから少しくだける。
そういう使い分けをしているようには見えなかった。
この日の清水に対して、正面から立っていた。
徳永英明さんは、「清水に来てくれてありがとう」という趣旨の言葉を言っていた。
この言い方も、少し心に残った。
自分が清水に来た、というだけではない。
清水に集まった客席を、自分の場として迎えているように聞こえた。
歌手が地方に来る。
観客が会場に来る。
その両方があって、その夜の場ができる。
徳永英明さんは、その場を軽く扱っていなかった。
少し似ていると思うのは、外科医のネクタイである。
外科医は、手術になれば手術着に着替える。
だから、ネクタイそのものが手術の技術に影響するわけではない。
それでも、朝、きちんとネクタイを締めて病院に来る外科医には、どこか安心させるものがある。
この人は、手術室に入る前から自分を雑に扱っていない。
そう思わせるからである。
徳永英明さんの装いにも、それに近いものがあった。
靴が見えたわけではない。
けれど、見えないところまで手が届いている人だと思わせる姿だった。
僕がこの日をベストステージだと受け取った理由は、そこにある。
曲間の短さ。
高音の前に出る右足。
スーツの輪郭。
赤いチーフ。
2階席から見えない靴まで想像させる立ち姿。
清水という会場に対する態度。
その一つひとつが、同じ方向を向いていた。
大きな演出で圧倒されたわけではない。
強い言葉で引っ張られたわけでもない。
ただ、歌に向かう身体と、場に立つ姿が、静かに水準を置いていた。
これは、徳永英明さんの今と過去を比較する文章ではない。
今日、僕が見た徳永英明がベストだったという話である。